上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--.--.-- -- l スポンサー広告 l top
http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/400/115330.html#more


視点・論点 「職の選択(4) ないならつくる」2012年03月29日 (木)


反貧困ネットワーク事務局長 湯浅 誠

この3月にご卒業されるみなさん、おめでとうございます。
今日は、4月から社会人になる方たちに向けて、私の「職歴」を紹介させていただきます。
「職歴」といっても、私には一般企業の就職経験はありません。私は、大学生の頃から、ボランティア活動などに熱をあげ、結果的にそれが仕事になる、という経歴をたどってきました。
その意味で、私の職歴は活動歴であり、私の職業は活動家、または社会運動家ということになります。


 好きでやっていたことが仕事になった、結果的に食えるようになったという点で、「自分は幸運だった、ラッキーだった」と私は感じています。
 私は、将来この職に就く、という明確な目標設定のないまま、東京大学法学部に入りました。あったのは「人に雇われる仕事には就きたくない」という漠然とした思いだけでした。
大学に入ると同時に児童養護施設の学習ボランティアなどを始め、大学にはほとんど行きませんでした。
 卒業できずに留年した大学5年生のときに学者になろうと思い、大学院に進学しましたが、博士論文を書けず、中退しました。
これが2003年です。
このころ、1995年から始めていたホームレス支援活動や生活困窮者への相談支援活動は非常に忙しくなっていましたが、すべては無償のボランティア活動であり、収入はゼロでした。
 このときに、野宿状態にある人たちと一緒に便利屋事業を始めました。引越しをしたり、亡くなられた方の家財道具を片付けたり、壁紙や床のフローリングを張るなど簡単なリフォームを行う事業です。私には肉体労働の経験はありませんでしたが、好奇心は強いほうなので、私よりはるかに経験豊かな野宿のおじさんたちに教わりながら、仕事を学びました。同時に、いろんな人脈を駆使して仕事を取ってくるのは私の役割でした。営業をし、見積もりをし、現場で荷物を運ぶことで、月に2~3件だった仕事が、一年でほぼ毎日ある状態になりました。当時は現場で荷物を運んだ際の日当が6000円、見積り手当が1000円でしたから、私の月収は12~3万円になりました。大学院を中退してから4年間ほどは、私はこの便利屋事業で生計を立てていました。
 便利屋をやりながら、「もやい」という団体で生活支援を行っていましたから、ダブルワークのような状態でしたが、「もやい」の活動は無償ボランティアだったので、収入にはなりませんでした。この活動が収入に結びついたのは、本を書いたことがきっかけでした。
 2000年代前半、雇用の不安定化が進行する中で、生活できなくなって相談に来る人たちはどんどん増えていきました。
また、活動が新聞やテレビで取り上げられることもごくまれにはあったので、地方からの相談も増えました。この時期、日本社会の貧困化がおそろしい勢いで進行しました。
 私が一番困ったのは、地方から電話をかけてくる人たちでした。都内から相談に来る人たちは対面して詳しく話を聞き、本人の様子も見て、必要なら役所に同行したりすることができます。しかし、北陸や四国から電話をかけてくる人たちには、電話でアドバイスすることしかできません。中には役所から不当に追い返された人も珍しくなく、生活保護制度などは非常に利用しにくい状態にありましたが、電話のアドバイスだけで複雑な役所の手続きを伝えることは不可能でした。
 そこで私は「紹介できる本はないか」と探しましたが、学者が書いた本は難しすぎて、相談に来る人たちが実際に使えるものではありませんでした。「ないなら作るしかない」と本を執筆したのが2005年の正月でした。当時は出版業界に知合いなどいませんでしたが、インターネットで興味を持ってくれる出版社が現れて、出版にこぎつけました。
そして、それをきっかけに社会保障の問題に取り組む学者や法律家などと知り合うことになり、徐々に原稿依頼や講演依頼が増えていきました。
 その後、何冊かの本を書き、年越し派遣村を行い、内閣府参与という政府のアドバイザーを勤めたりして、収入源がいろいろ変わりながらも生計は立っている、というのが私の活動歴、そして職歴です。

 最初に「私は幸運だった」と言いました。まず、ホームレス支援に関わったことが幸運でした。最初は友だちが活動していたのを見に行ったのがきっかけで、私にとって、半分以上偶然でした。ホームレス問題に関わったおかげで、「ないなら作る」という発想が身につきました。野宿の人たちには仕事もなければお金もない、屋根すらありません。「ないなら諦める」ならば、死ぬしかありません。皆「ない」中で工夫しながら生き抜いています。モノが溢れ、制度もそれなりに整った時代に、「ないなら作ろう」と生活空間をつくり、仕事をつくり、本を書き、とやってこられたのは、偶然に関わった現場がホームレス支援の現場だったことが幸いしている、と感じます。
 また、「ないならつくる」と言って作ってしまえたのは、私の家庭環境や生育要因が影響しているのだと思います。私の兄は身体障害者ですが、障害者運動の歴史は、まさに「ないからつくる」歴史だったと思います。そこから「つくれるんだ」という自信を学びました。母親は学校教員で、気がつけば私は「勉強のできる子」になっていました。「ないからつくる」と言って本を書いたら出版できたというのは、両親の文化資本の影響が大きいのだと思います。

 私は、自分なりに努力して生きてきました。しかし、好きでやっていた活動で食えるようになったのは、自分の努力以上に運や環境が大きいと感じています。逆に言うと、私と同じ努力をしても、運や環境が異なれば、違う結果に至る可能性が少なくないと思います。だから私は「好きなことを仕事にしよう。努力すればできますよ」と言う気はありません。現実には、私と同じだけ努力しても、同じ結果にたどり着かない人はいるからです。だから私は、「努力次第です」と言うのではなく、そんなことを言わなくても努力次第で結果が伴う社会、環境要因が悪くても一生不利を背負って生きていかなくてもよい社会をつくることに、自分の努力を振り向けたいと思っています。
それが私の活動であり、仕事です。そしてまた、両親や社会から自分の努力以上のものを付け加えてもらった私の義務でもあると思います。
 私がホームレス支援活動を始めてからの十数年の間に、テレビなどで「努力次第だ」「あきらめなければ夢はかなう」と叫ばれる回数がずいぶん増えた、と感じます。それは、だんだんとそれがあたりまえではなくなってきている証拠です。あたりまえのことは、誰も強調しません。「一日は24時間だ!」と叫ぶ人はいません。だから私は、より多くの人が運や環境に左右されすぎない社会をつくる意識をもっていただけると、世の中はずっと良くなるのではないかと思っています。目指すは、誰も「努力次第だ」と叫ばなくても済む社会です。職種や業種に関係なく、それを少しでも進めた人が「いい仕事をした」と言えるのではないか、と私は思います。

関連記事
スポンサーサイト
2012.04.14 Sat l 未分類 l top
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。