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http://yuasamakoto.blogspot.com/2012/03/blog-post_07.html

● 政府との関係、社会運動の立ち位置について

 この点については、すでに関連する拙文として「社会運動と政権」(岩波書店『世界』2010年6月
号)、「社会運動の立ち位置について」(同、2012年3月号)がありますので、それを前提としつつ
、少し付け加えたいと思います。
 後者の文章の中で、私が「調整の次元に主体的にコミットすべき」と書いたことについて、社会運
動もより政府内部の調整過程にコミットすべき、と解釈した人たちがいたらしいことを、複数の人た
ちから聞きました。私の書き方がまずかったために、このような誤読を惹き起こしたのだろうと思う
のですが、おそらくそう解釈した人たちは、政府内部での調整過程へのコミットを称揚したはずの私
が、その直後に辞任に至った理由が理解できないだろうと思います。理解されないのは残念なことだ
し、それがまた誤読に基づくさらなる憶測を惹き起こすとしたら、あまりに生産的でないので、ここ
で釈明しつつ、私が感じている課題をさらに整理しておきたいと思います。
 あたりまえですが、政府内部の調整過程にコミットできるかどうか、その人選は政府が決めるもの
であり、外部の人間が決めることはできません。したがって、コミットするかどうかの選択権は外部
にはなく、社会運動を含めた外部は受身でしかありません。端的には、声がかかるか、排除されるか
、です。そして、政府の舞台設定は政府が行うものである以上、声がかかるほうがいいかどうかは、
ケースバイケースです。望ましい方向性を打ち出すためのものであれば、声がかかるほうが望ましい
し、望ましくない方向性を打ち出すためのものであれば、声がかかっても拒否する場合もあるでしょ
うし、排除されるほうがむしろ望ましいという場合もあります。途中で「席を蹴る」といった場合も
あるでしょう。したがって、選択権のない外部(社会運動)にとって「政府内部の調整過程にコミッ
トすべき」という命題は、ほとんど意味がありません。意味のないことを、私は主張しません。
 問題は、たとえば「席を蹴る」という行為を何のために行うか、です。そこには二つの可能性があ
ります。1)気に入らないから、2)席を蹴ったほうが結論を有利に導けるから。1)は席を蹴るこ
とによって結果責任を回避しています。このまま議論に付き合っていると、よからぬ結論の作成責任
を自分も負わされてしまう可能性がある。それはご免こうむる、というわけです。それは心情的には
理解できます。ただし、結論はその人が席を蹴ることによって、その人にとってより一層望ましくな
いものになる可能性があります。その結果責任は、席を蹴ったその人にあります。席を蹴らなければ
、不満足であっても一部は意見が採用されたかもしれないからです。2)はその結果責任を自覚した
振舞いです。席を蹴るというインパクトの強い振舞いをすることによって、たとえばマスコミにその
問題を取り上げさせ、それによって席を蹴らずに内部で奮闘するよりもより自分にとって有利なもの
に導こうとするものです。その際、席を蹴るという行為は、いわば社会に向けて行われており、それ
によって醸成する社会的力で政治的力関係に影響を与えようとするものです。それが成功するかどう
かは、政治的・社会的力関係の総体で決まります。社会的にマスコミの注目を引くことに成功しても
、政府が無視できる程度のものであったとすれば、結論は席を蹴らなかった場合に比べて悪くなるか
もしれません。政府が無視できないくらいに社会的力関係を形成できるとしたら、席を蹴ったことが
その人にとっては「成功」となります。そうならなかった場合、席を蹴った本人は自分を責めます。
自分の見通しが甘かったからです。
 ウェーバーは、いわば1)を「心情倫理」と呼び、2)を「責任倫理」と呼びました。私はウェー
バーを引用しつつ、次のように書きました。
 「利害関係者間の調整を〈政治〉と言う。この意味での〈政治〉は、社会的領域(世間、地域)に
も政治的領域(「霞ヶ関」、「永田町」)にも偏在している。(中略)政治的・社会的力関係総体に
影響を及ぼす手法には、さまざまなものがある。選挙や裁判はそのもっとも公的なものだが、政治家
や役人・官僚、審議会委員に働きかける方法もあるし、署名、陳情、デモ、座り込み、集会、マスコ
ミ対策、インターネットを通じた意見表明と拡散、など社会的な働きかけによって世論形成を図る方
法もある。これらはすべて調整=〈政治〉の一環であり、ある利害を政治的・社会的力関係総体の中
で優位に立たせたり、また劣勢を挽回するために行うものだ。(中略)その意味で、政治的・社会的
な働きかけを行う者は調整=〈政治〉の当事者である。(中略)したがって調整の当事者として、私
たちはその調整結果に対して、幾分なりとも結果責任を負う。選挙で選んだ責任、ある政策・制度を
推進または阻止できなかった責任などだ。それが民主主義システムにおける主権者としての責任であ
り、結果責任を負うのは政治家のみではない。(中略)そして、あらゆる政治的・社会的な働きかけ
は、意識的にせよ無意識的にせよ、調整の当事者として、政治的・社会的力関係の変容、およびその
力関係の反映としての政治的領域における決定への影響力行使を目指して行われる」。
 「席を蹴る」のは、ある劣勢を挽回するために行うデモと同じ〈政治〉=調整です。席を蹴ったの
はあいつらが悪いからで、おれは知らない、おれにはもう責任はない、では済まない。本人が自覚し
ているかどうかに関わりなく、常にすでに調整の当事者として結果責任を負っているということ、そ
れが民主主義における主権者ということだ、と私は考えています。結果責任を消せるのは頭の中だけ
です。「席を蹴る」行為だけでなく「(声がかかったのを)拒否する」場合も同様です。もちろん、
居酒屋やブログでいろんな不満や批判をぶちまけるのも同じです。
 しかし、居酒屋やブログで不満や批判をぶちまける人、デモや集会を行う人たちの中には、それが
奏功しなかった場合の結果責任の自覚がない人(調整当事者としての自覚がない人、主権者としての
自覚がない人)がいます。それらの行為がよりよい結果をもたらさなかったのは、聞き入れなかった
政府が悪いからだ、で済ましてしまう人です。その人が忘れているのは、1億2千万人の人口の中には
、自分と反対の意見を持っている人もいて、政府はその人の税金も使っている、という単純な事実で
す。相互に対立する意見の両方を100%聞き入れることは、政府でなくても、誰でもできません。し
かしどちらも主権者である以上、結局どちらの意見をどれくらい容れるかは、両者の力関係で決まり
ます。世の中には多様な意見がありますから、それは結局「政治的・社会的力関係総体」で決まるこ
とになります。だから、自分たちの意見をより政治的・社会的力関係総体に浸透させることに成功し
たほうが、同じ玉虫色の結論であっても、より自分たちの意見に近い結論を導き出すことができます

 しかし、聞き入れなかった政府が悪いからだ、で済ましてしまうと、自分たちの意見をより政治的
・社会的力関係総体に浸透させるために不足しているものは何か、どうして自分たちの意見は十分に
広がらないのか、どんな工夫が足りないのか、という問題意識が出てきません。それは社会運動にと
って、とても残念なことだと私は思っています(それは、よくある「独善的」との批判に根拠を与え
てしまいます)。そして、政治的シニシズムが「強いリーダーシップ」によって政治的に活性化され
た現在、社会運動はますますそのことを強く意識する必要があるのではないか、というのが私の趣旨
でした。だから、「政府の外でやってないで、政府内部の調整過程にコミットしよう」などという話
ではありません。そもそも、もしそうだとしたら、社会運動を見切っているわけで、「社会運動の立
ち位置」などという文章を書く動機が私自身に存在しません。
 実際には、社会的にも政治的にも利害関係は複雑で錯綜しており、アテにしていた反応・反響が得
られないことはしばしばあります。すべてを計算し尽くして行動することは不可能です。「やってみ
ないとわからない」のが現実であり、何らかの行動を選択した後に、それに見合う反応・反響を確保
すべく奔走するのが普通だと思います。一定レベルのインパクトを狙っている場合に、それを事前に
言ってしまうとインパクトが削がれてしまうので、真の狙いは当面言わず、タイミングを見計らうと
いう判断もありえます。こうした細々した判断と行動の積み重ねによって政治的・社会的力関係総体
への働きかけを行うわけですが、重要なことは、結果としてうまくいかないことはあり、その責めは
、いろんな反応・反響を予期し切れなかった自分のシュミレーション不足だと考える必要がある、とい
うことです。それを「相手が悪かった」または「想定外」と無反省に切り捨ててしまったら、今後に
向けた教訓は出てこず、進歩もない。それは、原発事故をめぐる一連の政府・東電の反応から私たち
が学び取るべきものでもあると思います。
 こうした考え方は、自己責任論的に聞こえるかもしれません。社会運動の自己責任論です。たしか
にそうです。そもそも、私が巷の自己責任論にもっとも不満だったのは、それが社会の構成員として
の、市民としての、主権者としての自覚を伴わない物言いだという点にありました。誰かを排除する
社会に住みながら、自分もその構成員の一人でありながら、その自己に対する責任の自覚なく、自分
とは関係ない誰か、とりわけ排除を受けている誰かの責任に帰して、自分は無関係だと考えるその無
責任さに腹が立っていました。その意味で、いわゆる自己責任論は社会的無責任論であり、私が「貧
困は自己責任ではない」という言葉で訴えていたのは、「本人の人生には一点の曇りもありません」
ということではなく、「貧困は社会的無責任論では解決しない」ということでした。その意味では、
私は巷に流通している、自分の無責任さを正当化する理屈としての自己責任論者とは異なる意味での
自己責任論者と言えるかもしれません。それが、どんなに嫌がっても主権者から降りられない民主主
義というシステムなのだと思います。
 私の推測が間違っているかもしれませんが、今の社会に欠けているのは、少なからぬ人たちがその
ように振舞って、それぞれができる範囲で、政治的・社会的力関係総体への働きかけを行っていると
いう信頼感ではないか、と感じています。私がこの2年間で発見したのは、官僚の中にも、私と同じ
ような方向性を目指しながら働きかけを行っている人たちがたくさんいる、ということでした。その
人たちはテレビや新聞で原則論をぶったりはしません。錯綜する利害関係の中で説明・説得・調整・
妥協を繰り返しています。決定権をもたない組織の一員として、言いたいことを声高に言うことなく
、しかし結論が「言いたいこと」になるべく近づくように奮闘しています。ところが、外側の私たち
は、そうした内部の奮闘の結果として最後に出てきた結論が情報に接する最初になるので、そこから
評価が始まり、交渉が始まります。批判の矛先が奮闘した当の本人に向くこともしばしばです。
Aという担当者がいて、ある事柄をなんとかしたいと発案し、提起する。課内から局、局から省、省
から政府と持ち上がる過程でさまざまな修正が入り、結論としての政策が出来上がる。しかし、もと
もと同じ方向性の主張を掲げていた人たちが、その結論を原則的な立場から頭ごなしに批判し、説明
者でもある担当者をなじる。この過程が何度となく繰り返されていけば、少なくとも私だったらだん
だんと気持ちが萎えていきます。
原則的な立場は大事です。問題は、原則的なことを言っていれば原則的なことが実現するわけではな
い、という点にあります。「ぶれずにある立場を堅持していれば、いずれ理解される」と言って、30
年40年と同じことを言い続けている人がいます。しかし、言い続けてきた30年分40年分、世の中が言
っていることに近づいてきているかというと、必ずしもそうでないという場合があります。世の中に
は、反対の立場から30年40年原則的なことを言い続けている人もいるからです。その際の問題点は「
原則的な立場を堅持するかどうか」ではなく、「原則的な立場に現実を少しでも近づけるための、言
い方ややり方の工夫をする必要がある」という点にあります。工夫が足りないことの結果として自分
の見解が広く理解されなかったことの結果責任の自覚なく、「聞き入れないあいつらがわかってない
」と言っているだけでは、さらに多くの人たちから相手にされなくなっていくだけで、その逆にはな
らないでしょう。
 あたりまえのことしか言っていないと思うのですが、実際にはそのあたりまえが通用しない局面が
あります。現実的な工夫よりは、より原則的に、より非妥協的に、より威勢よく、より先鋭的に、よ
り思い切った主張が、社会運動内部でも世間一般でも喝采を集めることがあります。そうなると、政
治的・社会的力関係総体への地道な働きかけは、見えにくく、複雑でわかりにくいという理由から批
判の対象とされます。見えにくく、複雑でわかりにくいのは、世の利害関係が多様で複雑だからなの
であって、単純なものを複雑に見せているわけではなく、複雑だから複雑にしか処理できないにすぎ
ないのですが、そのことに対する社会の想像力が低下していっているのではないかと感じます。
 テレビや新聞の断片的な情報と、それを受け取った際の印象で自分の判断を形成し、それがきわめ
て不十分な情報だけに依拠したとりあえずの判断でしかないという自覚がなく、各種の専門家の意見
に謙虚に耳を傾けることもなく、自分と異なる意見に対して攻撃的に反応する。ツイッターでもブロ
グでも、テレビのコメンテーターから中央・地方の政治家から、そして社会運動の中にも、このよう
な態度が蔓延しており、信頼感と共感は社会化されず、不信感ばかりが急速に社会化される状態、他
者をこきおろす者が、それが強ければ強いほど高く評価されるような状態、より過激なバッシングへ
の競争状態です。
 容易に転換しそうにないこの風潮をどうすれば変えることができるのか、私にはまだよくわかりま
せん。ただ少なくとも、このような局面で社会運動が採るべき方向性は、バッシング競争で負けない
ためにより気の利いたワンフレーズを探すことではなく、許容量を広く取って理解と共感を広げてい
くために、相手に反応して自分を変化させ続けていくこと、政治的・社会的な調整と交渉に主体的に
コミットすること、そして自分という存在の社会性により磨きをかけていくことではないかと思いま
す。それが、私の考える「社会運動の立ち位置」です。
 この2年間、私はそれまで知らなかった世界を垣間見てきました。政策的に十分な成果を挙げられ
たかといえば、そうは言えないと思うので、政策的な働きかけはこれからも継続していきますが、個
人的な経験としては、2年間で学んだものは非常に大きかったと感じています。これから民間の立場
に戻りますが(参与職は非常勤国家公務員ですから、この間も半分は民間の立場で活動していました
が)、この2年間の経験を「なかったこと」にはできませんので、これからもこの経験を踏まえて、
政治的・社会的力関係総体への働きかけを続けていきたいと思います。
 末尾になりましたが、この2年間、さまざまなことをご教示くださった方々に、深くお礼申し上げ
ます。ありがとうございました。

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2012.03.12 Mon l 未分類 l top
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