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http://www.sakigake.jp/p/column/hokuto.jsp?kc=20110721ax

北斗星(7月21日付)
 平泉が世界遺産となったことを喜び、遅ればせながら大館市二井田の「錦神社」に参拝した。平泉文化を築いた奥州藤原氏の4代目泰衡(やすひら)を祭るにしては、簡素な神社である

▼泰衡は源頼朝に攻め込まれ、平泉を捨て二井田まで逃れたものの配下の河田次郎に殺され、家系は断絶する。「里人が泰衡の遺骸を錦にくるんで葬った」との言い伝えが神社の由来だ。近くには泰衡の妻を祭る西木戸神社もある

▼奥州藤原氏の初代清衡(きよひら)は、横手盆地を本拠とする豪族清原氏の下で育ち、長じて平泉に本拠を構えた。平泉文化の発祥と滅亡に秋田の地が深く関わっているのである。大館市観光協会は平泉と大館の縁をパンフレットにして紹介、観光案内にも生かし始めた

▼大館比内地方を支配していた河田次郎は、頼朝の恩賞にあずかりたいがために泰衡を裏切ったが、主君殺しの責めを負い、頼朝によって首をはねられた。これは鎌倉幕府の正史「吾妻鏡(あづまかがみ)」が伝えるところであり、パンフも踏襲している

▼しかし地元には、以下の異説も伝わる。河田次郎は平泉政権から北の守りを任されたほどの人物である。頼朝軍と藤原軍が戦えば里は焼け野原となる。それを避けるため泰衡ともども覚悟の上で命を差し出した、というものだ

▼平泉政権が滅亡した820年前の戦いは、頼朝の鎌倉幕府から見れば奥州征伐となる。だが里人の口伝からは平泉への思慕の念がにじみ出る。歴史は勝者の視点で書かれるのが常だがこぼれ落ちるものも多い。

(2011/07/21 09:40 更新)
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2011.07.21 Thu l メディアリテラシー l top
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